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2008年8月1日

イサム・ノグチのお話

「お砂糖は脳のエネルギー源」ということで、
毎月一回頭脳明晰で、後世に名を残した人物にスポットを当てています。

今日は、札幌市のモエレ沼公園の設計者としてもなじみ深い
「イサム・ノグチ」をピックアップします。

札幌市中心部でイサム・ノグチの先品に触れ合える場所といえば大通公園。
ここには、渦巻き状のユニークな滑り台、
ブラック・スライド・マントラがありますよね。

イサム・ノグチは、札幌の真っ白な雪にもはえるよう、
このマントラを、黒い石で造ることにしたそうです。
実は、アメリカのマイアミには白いスライド・マントラがあって、
姉妹版になっているですよね。

そして、このブラック・スライド・マントラの置き場所なんですが、
これを決めるのが中々大変だったとか。
当初は9丁目に置くはずだったのが、現地を見たノグチが、
「ここには置きません。」と言い
時間をかけて考えた結果、「ここなら置いてもいいね」と指さしたのが、
8丁目と9丁目の間の道路上だったんです。
いったいマントラは、どこに置かれることになったんでしょう。

イサムノグチは、大通公園の8丁目と9丁目をつないで、
子どもたちが安心して遊べるように
また東西南北どの通りからも見えるように
マントラを置くことを望んだんですね。

結局マントラの設置場所はなかなか決まらず、
彼が亡くなって3年後、8丁目の芝生の上に置かれたんですが
その後、彼の遺言にしたがい8丁目と9丁目の間に動かされました。
なので、ここだけ、南北に走る車道がないんですよね!

8丁目と9丁目が一続きになって、公園内で一番広い空間になっているんです。

さて、イサム・ノグチは、20世紀の巨人彫刻家です。
しかし、彼の84年の生涯は、決して平坦なものではありませんでした。

イサム・ノグチは、日本人で詩人の父と、彼のニューヨーク時代の
出版のパートナーのアメリカ人の母の間に誕生しています。
が、父親が日本に帰国し父不在のままでの誕生でした。
そして、2年後母と共に父を訪ねて来日。
しかし、父親とは別の生活を強いられ、この時代にハーフであった
彼にとっては、日本での暮らしは辛いものでした。

その一方で、茅ケ崎で生活した時代、登校拒否に陥っていた
10歳のイサム・ノグチを支えたのは日本庭園への憧れであり
造園家になるという夢だったといいます。

彼自身、「子ども時代を自然の変化に敏感な日本で過ごしたのは幸運だった。
日本ではいつも自然が身近だった」と語っています。

13歳で単身渡米し、母の姓、イサム・ギルモアと名乗り
高校卒業後、大学の医学部に通う傍ら、母の薦めで美術学校にも通う事になります。

そこで、「ミケランジェロの再来」と賞され、
入学三カ月目には個展を開いた彼は、彫刻家として生きてゆくことを決意。
この時から「イサム・ノグチ」を名乗ってゆきます。
憎しみの反面、東洋と西洋の融合を追及した父への畏敬の念が含まれていました。

ところで、札幌市民が、イサム・ノグチと聞いて
真っ先に思い浮かべるのは、やはりモエレ沼公園でしょう。

雪の降るこの札幌の地にノグチが降り立ったのは、
まだ雪が残る昭和63年3月のことでした。

札幌市の「緑化環状グリーンベルト構想」の中で、
札幌市からいくつか提案された場所で
唯一彼が興味を持ったのが、モエレ沼だったといいます。

現在、モエレ沼公園となっているところは、札幌市から出た
270万トンのゴミを埋め立てられて造成された土地なんですね。

モエレ沼公園は、東京ドーム約40個分の広さ。
この広大で何もない土地だからこそ、彼は自由に発想の翼を広げられたのでしょう。

モエレ沼公園は、不思議や、驚きや、楽しさがいっぱいです。
ユニークな遊具が並ぶ「サクラの森」子どもと一緒に大人も楽しめる
「モエレビーチ」に「モエレ山」「海の噴水」や「ガラスのピラミッド」

冬は、モエレ山からそり滑りをしている子供たちも沢山いて、
実は夏だけじゃなく、四季折々の楽しみ方があるのが、モエレ沼公園。

モエレ沼公園でイサム・ノグチに触れてみませんか?

では、また来週。


  
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