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2007年10月19日

クロード・モネのお話

この番組では、毎月一回、「砂糖は脳のエネルギー源」ということで
知的で、後世に名を残した人物にスポットを当てています。

今日は絵画の世界の巨匠「クロード・モネ」をピックアップします。

少し前に、パリのオルセー美術館に若者グループが侵入し、
モネの名画を傷つけたとう事件がありましたね。
この絵は「アルジャントゥイユの橋」という油絵なんですが、
これは美術史上でも重要な作品で
評価額の算定が困難とされるほどの名画なんですって。
本当に、酔っ払って、そんな重要な名画に傷をつけるなんで、
愚かすぎて怒りを覚えますよね。

その「クロード・モネ」とは、どのような画家だったのでしょうか?

モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な「印象派」の画家でした。

モネは、1840年、パリに生まれ、5歳の時、一家でノルマンディー地方の
セーヌ河口の街ル・アーブルに移住します。

モネは少年の頃から絵がとても上手でした。
描いた絵を、地元の文具店の店先に置いてもらっていて、
これが、ル・アーヴルで活動していた風景画家ブーダンの目にとまり
彼らは知り合うことになります。

ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を
描いていた画家だったんですね。
ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を
決定づけたと言われています。

モネは、1890年、パリの郊外にあるジヴェルニーに土地を購入します。
彼は、亡くなるまで、この地で制作を続けました。
モネは、ジヴェルニーに睡蓮の池を中心とした「水の庭」、
さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造ったんです。
パリ郊外の観光名所として多くの人が訪れるこの庭自体が、
自分の「最高傑作」だとモネ自身が語っていたといいます。

そして、モネの代名詞ともなっているのが1890年代から
描きはじめた『睡蓮』の連作です。

『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、
彼が亡くなるまでの間に全部で200点以上も制作されています。

パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める『睡蓮』の大壁画は
1918年、モネの友人で、当時の首相でもあった
ジョルジュ・クレマンソーを通じて、モネ自身が国家に寄付を申し出たものです。

この『睡蓮』の展示にあたっては、モネ自身によって
厳しい条件がつけられているんだそうです。

まず、『睡蓮』の部屋には他の作品を展示しないこと。
そして、作品と観客との間に仕切りやガラスなどを設置しないこと、
などがモネがあげた条件です。

モネが1923年に、しぶしぶ白内障の手術を受けたのは、
この大作を完成させるためだったんですね。
けれども、作品の出来に満足していなかったモネは一時は
国家への寄贈を取りやめようとさえ思ったそうですが
クレマンソーはモネに対し
「あなたのために国家は多額の出費をした。
 あなたには寄贈を取りやめるという選択肢はない」との
書簡を送りました。
モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けました。
そして「作品の展示は自分の死後にしてもらう」という条件だけは
断固として貫いたそうですよ。

ところで、日本の「浮世絵」が、モネをはじめ、ゴッホ、ミレーなどの
多くの印象派の画家たちにインスピレーションを与えたというのは有名な話ですが、
浮世絵の色使いや構成は彼ら西洋の画家たちにとっては新鮮なものだったんです。

モネは、1870年代頃から浮世絵のコレクションを始め、
そのコレクションは亡くなるまで続きました。
彼の、ジヴェルニーの家では、素晴らしい浮世絵の
コレクションを見ることが出来るそうですよ。

余談ですが、私はモネの「ひなげし」とか「日傘をさす女」が好きですね。

それじゃあ、また来週!


  
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